2023年、年が明けて間もなく、霙が舞うような寒い日のことである。とある会社から、私のもとに一本の連絡が入った。その会社の方が私に、
「是非とも会いたい」
と、望んでおられるとのことであった。多忙な日々を送らせて頂いている今、このような話は決して珍しくはない。しかし、当時の私の気持ちを紐解くと、驚きが半分、戸惑いが半分だったと記憶している。
私が驚いた訳は、先方が「明日にでも、何処にでも行く」と、凄まじいほどの熱意を放っていたこと。私が戸惑った訳は、「まずはお会いして話したい」と、熱量の割に面会の理由が些か茫洋としていたからである。
数日後、京都で対面することとなった。先方は四人だったか、こちらは秘書二人と共に。自己紹介、暫しの雑談の後、いよいよ本題が切り出された。
「是非、共にお仕事をしたい」
まさに単刀直入である。少し詳細を知る必要を感じて、
「どの作品ですか?」
と、私は尋ねた。
「それは今から共に決めていければと思っています」
この返答には混乱した。このような話の時、いずれかの作品に惚れ込んでくださり、それを映像化、アニメ化、あるいは舞台化したいと打診があるのが普通だからだ。私が返答に窮していると、先方ははきとした口調で続けた。
「今村翔吾先生とお仕事をしたいということです」
何故、そのように思ってくださったのか。私がさらに問いを投げ掛けると、ここに至るまでの経緯を詳らかにされた。
日本のコンテンツはすでに世界中で愛されているが、今後はさらに広がっていくものと確信している。その時、日本ならではの文化、日本ならではの歴史を織り込んだものを発信していきたいと思っている。しかし、世界に届ける為には、万人が熱くなれるようなエンターテインメント性も必要である。それを共にやれる人はいないか。そう各所で訊いたところ、私の名が方々から挙がって来たという。その後、私の作品群を精読したらしい。
さらにその頃、
――時代小説を世界に届けたい。
と、私が目標を口にしていることも知ったという。これはまず会わなければ。まず会いたい。その一心で駆け付けて下さったという次第である。
何でもいいは、聞き方によっては、いい加減のようにも聞こえる。しかし、そうではないということは、話を聞いていればすぐに解った。話している最中も、相変わらず凄まじい熱量である。私と共に何かをしたい、私に賭けてみたいという想いが、ひしひしと伝わってきていた。
私には、一つだけ、安易にはメディアミックスを許可して来なかった作品がある。
私は作家になる以前、ダンス講師であった。ダンスが好きだったかと問われれば、正直なところ首を捻らざるを得ない。では何故、さほど好きでもないことを生業にしていたのか。私の父はダンス教室の運営、イベントを行う会社の代表を務めていた。つまりは家業だったという訳である。
かなり多忙な日々であった。朝の7時から夕方までは、事務作業や、作曲、映像の編集、イベントの仕込みを行い、そこから各地の教室にレッスンに行く。かなり遠方の教室もあったため、自宅に帰った時に夜の12時を回ることも珍しくない。世が休日、祝日の時には、子どもたちが参加するイベントの引率。年末年始もクリスマスやら、カウントダウンのイベント。年間、完全な休日は5日ほどだっただろう。
ダンスはさほど好きではない上、それほど過酷な日々を送っていながら、何故、十年近くも続けられていたのか。それは子どもたちと関わるのは好きだったから。その一言に尽きる。
彼ら、彼女ら、教え子たちと様々なイベントに赴いた。老人養護施設、特別養護施設にも、よくボランティアで踊りに行った。
どのような教え子たちなのか。大半は小学生から高校生。茶髪や金髪、長い付け睫毛、耳に留まらず眉や臍のピアス。全員がそうではないが、かなり見た目が派手な子が多かったのは事実である。そのような風貌のため、
「ボランティアなんていい恰好して」
と、地元では鼻で嗤われることも、小馬鹿にされることも多く、悔しそうにしていたのを今も覚えている。
2011年、東日本大震災が発生した。私は早い段階で被災地のボランティアに入り、現地の方々と交流する機会を得た。そして、多くの両親を失った子が施設に入っていることを知ったのである。
その年のクリスマス、そのような子たちに少しでも喜んで貰おうとコンサートを開いた。当日、集まった数は優に千人を超えた。施設の子どもたちが多いが、それ以外の被災者の方々も沢山集まってくださった。
コンサート当日、私が引率した百人を超える教え子たちは怯えていた。散々、見た目のことを揶揄された経験から、こんな私たちで受け入れて貰えるのかと。
それは杞憂に終わった。満面の笑顔で迎え入れてくださったのだ。涙を流している方も多くいた。見た目も大切なのかもしれない。しかし、人にはその心を見極める力があると感じた瞬間であった。
教え子たちもまた泣いていた。こんな自分たちが、ほんの少しでも誰かの力になれることを感じて。本当に救われたのは教え子たちのほうだったのかもしれない。
それから四年後の2015年2月、三十歳となった私はダンス講師を辞すことになった。かねてからの夢である小説家を目指すために。きっかけも教え子の一人。夢を諦めるなと熱血ぶって語る私に、
「翔吾くんも夢諦めてるやん」
と返され、本当にその通りだと思ったから。
「三十歳からでも夢を叶えられると残りの人生で証明する。最後にそれを教えてみせる」
私はそう大言壮語を吐き、小説家への道程を歩み始めた。
やがて本を出す機会が来た。しかし、一読書好きとしても、昨今の出版事情は知っていたつもりだ。一冊の本を出したところで、続けて書けなかったり、売上が芳しくなかったりで、その後が続かない作家が大半である。私も覚悟を決めていた。これが最初で最後の一冊になる可能性が極めて高いと。
一冊。ならば決して後悔はしないように。一度は諦めた夢に挑む物語にしたい。共に生きた教え子たちの背を押す物語にしたい。そして、どれほど苦しいことがあっても、何度倒れてしまったとしても、決して諦めない人々の物語にしたい。その時、脳裡に閃いたのが『火喰鳥』であった。
その後、この作品は「羽州ぼろ鳶組シリーズ」の一巻目となり、現在までで十三巻まで数えている。私を作家にしてくれたといっても過言ではない。
そのような作品である。これまでに幾度となく、メディアミックスの話題は上がったものの、心から賛成出来るほどのものは無かった。しかし、この時、
「火喰鳥はどうですか」
と、自ら思わず提案をしてしまっていた。
日本ならではの作品で、世界中の人々の心を躍らせたい。感動を伝えたい。勇気を与えたい。その強い想いが私の胸を揺さぶり、その言葉を出させたのだと思う。
私にとって如何なる作品か。それも彼らには十分に伝わったらしい。綿密な打ち合わせを幾度となく行い、妥協することなく共に走って来た。
現段階ですでに、このチームと巡り合えて良かったと思っている。この出逢いがなければ、きっと『火喰鳥』がアニメ、漫画になることは無かっただろう。
決して諦め無い男たちが皆さんの胸を熱くする。私は今、時代小説発として最高のアニメ、漫画になると確信している。